〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
耕さず、肥料をやらず、雑草も殆ど取らない農法について、何度か紹介した。
筆者は更に過激に、「タネすら蒔かない」農法を模索中である。
(最初だけはもちろんタネを蒔きますよ…。念のため)
人間は収穫を頂戴するのみ!、ってのが理想である。
キクイモ・ミョウガ・フキ・シソ・イチゴ・アサツキ等で、一応実現できた。
柿・イチジク・くり・梅・山椒・スモモなどに至っては、全くの放ったらかしだ。
それでも、かなりの量の収穫がある。(見映えは少し悪いのもあるが (^^;)
そして今年は、蕎麦(ソバ)で実現できたので、喜んでいます。
昨年、蕎麦の収穫を少し遅い時期にした。
だからある程度の数のタネが、既に地面に落ちていたのだろう。
今年は勝手に芽が出てきたというわけだ。(量もそこそこある)
次の写真が、一部開花してきたその蕎麦です:
![]() |
ちなみに、蕎麦を栽培していますと言うと、「蕎麦をうつんですか」と訊かれる。
ヌードルとしての先入観が、あまりにも大きいようだ。
筆者は、そんな面倒臭いことはしません。(笑)
現在の利用法は、「スプラウト」である。
台所のガラス窓に棚を何段も作って、容器に入れ、年中発芽させている。
料理の直前に収穫できて最高に新鮮だし、発芽パワーも頂戴できる。
次はお米を炊くように、蕎麦を炊飯器で炊いてみようと思っている。
モンゴルのどこかの地方で、そのようにして蕎麦を食べているようだ。
その様子を映したテレビ放送を、筆者は見たのです。
結構おいしそうだったですよ v(^○^)
でも脱穀方法とか水加減等が分からないので、知っている人いませんかぁ?
■■■ 真説・歴史観(4) 天皇から武士へ ■■■
本メルマガは、ご存知のように本来のテーマは「歴史」ではありません。
しかし現状認識を高めるには、歴史認識が重要です。
だから始めた歴史シリーズですが、今回から少しスピードアップします。
本来の議論に、できるだけ早く復帰したいからです。
だから本来の議論に必要と思われるトピックだけ、最小限にご紹介します。
ご存知のトピックも多いかもしれませんが、「確認」の意味でも書きました。
1つでも、あ、知らなかったかも、なるほどね、と思って頂ければ幸甚です。
なお、なるべく時系列的に書くつもりですが、どうなるか分かりません。
ちなみにもし筆者が大学入試の歴史を受験したら多分、50点もとれません。
「問題: ****の時、****は( )であった。( )が何かを述べよ」
そんなことは多くの場合、歴史事典を引けばよい話ではないか。
最近ではインターネット、特にウィキペディアもある。
第一、そんな「知識ばかりの歴史」では、面白くもなんともない。
そんなことより、その背景の流れ、何故そうなったかの方が重要である。
本メルマガは、そんな観点から書いています。
━━━【広告】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
‖健‖ 健康アンチエージングの厳選アイテム!
‖康‖━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
‖第‖ 還元水・健康ハーブなど紹介。少食健康法は無料で実行可!
‖一‖ http://www.kyoto.zaq.ne.jp/ark/KENKO.HTM
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
★★ 人を食った話 ★★
有名な吉川英治の「三国志(三)」草莽巻にある話である。
『
玄徳はその晩、猟師の家に泊まった。
猟師は、感涙を流して、
「こんな山家にご領主をお泊め申すのは勿体ないやら有難いやら…
(中略)
その晩、猟師は肉を煮て玄徳に饗した。
餓えぬいていた玄徳主従は、歓んで箸を取った。
そして、「何の肉か」と、たずねると、「狼の肉です」という猟師の返辞だった。
ところが、翌朝出発に際し、孫乾が馬を引出そうとして、何気なく厨をのぞくと、
女の 死骸があった。
愕いて、猟師に、「いかなるわけか」と質すと、猟師は泣いて、
「わたくしの愛妻ですが、ご覧のごとく、家貧しく殿へ饗すべき物もありませんので、
実は、妻の肉を煮ておもてなしに捧げたわけでございます」と、初めて打明けた。
孫乾からそれを聞いて、玄徳は感傷してやまなかった。
』
本当に実際、「人を食った話」だったけど、どう思われますか。
三国志という、小説での話だろうって?
実は似たような話は、つい数十年前まで、中国各地で多数存在した。
日本でも、人食いではないが、人身御供で生き埋めなんてのもあった。
じゃあ実際にあった話なら、殺された猟師の妻が可哀相!
…と思われるかもしれませんが、猟師の妻も「喜んで」死を選んだのだ。
それは可哀相というより、当時としては「美談」だったのである。
猟師はその後、玄徳に召抱えられ、出世している。
つまり現代人の感性で、歴史を見てはいけないということだ。
例えば神風特攻は志願制であり、その競争率は100倍以上だったという。
そう聞いても現代人は、「仕方なく志願したのだろう」、などと思う。
しかし実際はほとんどの特攻隊員は、死を超越した心境に達していた。
彼らの遺された手記を読んでみると、それが推察できる。
それでも一部の現代人には、「偽りの気持ちを書いた」、となる。
かように、歴史における当時の人々の感性を理解することは、困難だ。
でも、できるだけ理解していこうという気持ちは、必要だろう。
そんな話が出たついでに、もう一つ中国のお話。
宦官(かんがん)や纏足(てんそく)だ。
日本は律令制度など、中国からいろいろ取り入れてきた。
しかし去勢や奇形を強制する、宦官・纏足などはパスしたわけだ。
仏教や神道の感性からは、とても受け容れられなかったからだろう。
★★ 日本人は話し合いがお好き ★★
聖徳太子が604年に制定したとされる、『十七条憲法』をご存知でしょう。
「和を以って貴しとなし」で始まり、ここだけは聞いたことがありますよね。
筆者的に重要と思われろところを現代訳すると:
皆んな仲良く、争いごとを避けましょう。
お互い話し合えば、問題は必ず解決します。
仏法を大切にしましょう。
人は本来、悪人はいないから、よく教えれば仏法に従います。
官吏(公務員)は、礼を重んじて、民の模範となりなさい。
官吏は、贅沢をせず、賄賂は受けとらず、民に公正でありなさい。
官吏は、朝早くから出勤して、遅くまで誠実に働きなさい。
官吏・貴族は、私利私欲を棄て、公の利益を考えなさい。
私心は恨みを生み、恨みは不和に至り、不和は公益を妨げる。
独断で決めないこと。必ず皆んなと一緒に議論すべきである。
明治になってからの、明治天皇の『五箇条のご誓文』においても、
一、広ク会議ヲ興シ万機口論ニ決スヘシ
と第一箇条目から、会議 = 話し合いの重要性を説いている。
さすが「大和」 = 大きく和する、平和指向の国ですね。
聖徳太子の昔から、かなり「民主的」だったといえるかも。
それに日本は、「人間性善説」が基本にあるんですね。
西洋の場合、人間性悪説だから「法律」が発達したわけです。
話し合いを重んじるから、織田信長のような絶対君主は排除されます。
徳川幕府は、老中らと話し合うことで、長期政権を維持できたのです。
明治以降から戦後まで、天皇との御前会議が頻繁に開かれました。
しかし平和時なら話し合いは重要だけど、有事に弱いのは当然ですね。
日本は外国との戦争には基本的に弱い、根本原因がそこにあります。
つまり話し合いでは諸説入り乱れ、なかなか結論が出ない場合が多い。
幸運の女神に後ろ髪は無い、というが、決断のタイミングは重要だ。
あるいは妥協に妥協、足して2で割るのが普通になってしまう。
すると全体ビジョンに基づいた、長期的公益が損なわれるかもしれない。
あるいは、外圧がないと変わらない、という傾向になってしまいます。
それが、聖徳太子の昔から日本にあったことを、言いたかったのです。
★★ 平安の理想郷 ★★
十七条憲法(605年)の以前、例えば仁徳天皇(4世紀)の有名な和歌がある。
高き屋に
のぼりて見れば
煙り立つ
民のかまども
にぎはひにけり
つまり「民のかまど」から立ち昇る煙をみて、民の生活を案じたという。
それなりに、良い治世が行なわれていたようだ。
大化の改新(646年)では、公地公民の理想を掲げた。
土地の私有制を廃するこれって、一種の共産主義なんですよね。
一方、十七条憲法では話し合いが大事、って一種の民主主義だし…、
また官僚には、私利私欲を棄てて公益を考えろ、ともあるし…、
いまのどっかの共産主義国家より、良かったかもしれない。
尤も公地公民は、私有制の荘園など例外を認めて、あまり実現しなかった。
(ちなみに荘園を守る守備隊が、後の武士のルーツ)
でも、なかなか革命的な思想を、実践しようとしたわけですね。
さて十七条憲法より150年、奈良の大仏は、民衆と共に建立(752年)された。
『
律令国家を目指していた聖武天皇は、納税者である民衆を管理しようとした。
しかし、律令が課す重税に逃亡する民衆が後を絶たなかった。
そこで聖武天皇は、民衆に人気ある僧・行基にならい、仏教を基本とした。
(十七条憲法の、「仏教を大切に」、を忘れていたのかな?)
そして民衆の自発的な力で、巨大仏像を建造することになったのだ。
大仏は、収奪対象でしかなかった民衆を、国家が認める転換期の象徴となった。
』 (NHK・HPより http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_05.html#02)
こうして国内政治は、いい方向に流れていくのである。
一方、「国家安全保障」の点では、どうだったか。
坂上田村麻呂らの活躍(800年前後)により、北方の蝦夷を征圧した。
これで外敵からの脅威が、一応消滅した。
(蝦夷側からみたら、たまったもんじゃないけど)
平安時代(794年〜)の初期である。
そして、朝廷の色々な努力の結果、平安中期には理想郷が実現したのだ。
なぜなら、長い「平和」(平安)が到来したのだ。
どうして分かるかというと、なんと軍隊と警察が廃止された。画期的!
正確には、各々を担当する兵部省と刑部省は、あるにはある。
しかし担当大臣はいないし兵隊はいない、という有名無実ぶりだ。
外敵もいないし、国内治安も抜群だったから、実現できたこと。
戦争を無くそう!、って平和主義者からしたら、正に理想郷ではないか!
おかげさまで、世界初の女流作家・紫式部などが花開いたのだ。
源氏物語(1001年)の、あの世界である。(治安抜群でしょ?)
ヨーロッパでは、初の女流作家作品(1688年)は、アフラ・ベーンによる。
日本の方が、687年もリードしているのだ。
さてここで、南米「インカ・マヤ帝国の悲劇」を想起しなくてはいけない。
なぜ、たった数百名のスペイン人によって、彼らが征服されたのか?
理由はただ一つ。彼らに軍隊が無かったからである。
日本の平安時代中期にあたるタイミングで、侵略を受けたのだ。
日本でも、もし武士による鎌倉幕府成立(1192年〜)が遅れたら?
元寇(1274年・1281年)で、あっさり征服されていただろう。
★★ 武士の台頭と、日本の戦争(国内) ★★
さて、平安の理想郷も、いつまでもは存続しなかった。
やはり軍隊も警察も無いという国家は、理想でしかなかったのか?
警察が無くなれば犯罪も無くなるかといえば、現実問題は否である。
しかも私有制である荘園が拡大したので、税収はジリ貧状態です。
荘園は徴税の対象外(例外)だったから、税を徴収できない。
逆にいえば、税を払わなくていいから、荘園が拡大したのです。
それに荘園は私有制だから、農民の生産意欲が高まったのです。
公地公民(共産主義)よりも、私有制(自由主義)が勝利したのです。
こうして、荘園の所有者である豪族が、経済力を増していきました。
私有財産が増えると、それを護らなければなりません。
しかし朝廷には、軍隊も警察も無いから、護ってもらえない。
だから豪族は、私設の軍隊や警察を組織しました。
それが後に武士と言われるようになり、豪族は武士の棟梁というわけ。
こうして武士が台頭し、経済力と軍事力をもったのです。
その代表格が、平氏と源氏なのです。
こうして平安後期ともなると、朝廷の力は弱体化してしまったのです。
でも朝廷側には、「秘策」がありました。
本メルマガ前々号(ep38)で説明したように、天皇は神社の親玉です。
政治(政りごと=祭りごと)の実績もあり、祭祀王です。
どの地でも、どの時代でも、「宗教」は絶大で隠然たる力があります。
古事記や日本書紀で、権威付け(悪くいえば洗脳)も完了済みです。
一方武士には、力はあっても、権威(特に宗教的権威)がありません。
朝廷はその権威で以て、軍隊と警察の機能を、武士に委託したのです。
その長官職が、征夷大将軍や、守護・地頭だったわけです。
武士側もその権威を、むしろありがたく頂戴したのです
こうして以後700年も、幕府と朝廷が並存することになりました。
欧米人に解り易く言えば、天皇は日本のローマ法皇となったのです。
さてその後は、武士の覇権争いが、江戸時代までの日本の歴史です。
覇権争いの最たるものが、戦争です。
でもそこには一定の、日本の戦争ルールがありました。
最大の例は、戦争の農業へのダメージを最小限にすることです。
具体的には、こうです:
●戦争は、できるだけ人里離れた場所でやること。
だから、壇ノ浦とか、川中島とか、関が原が戦場になったのです。
関が原の戦では、地元農民が弁当持参で見物にきたくらいです。
ただ都会は、どうしても市街戦になりやすい。
京都人が閉鎖的なのは、戦争の記憶が関係してるのだと思う。
●戦争は、できるだけ農閑期にすること。
農閑期なら、もしも田畑での戦闘になっても、被害は少ない。
また兵隊の多くの部分を、自国農民で構成していたからです。
●戦争中、できるだけ地元農民から略奪等をしないこと。
勝って占領した後、地元農民からの信頼が必要だからです。
そこが新しい領地になり、領民になるからです。
農民の方も、今度はどんな領主様かなぁ、って感じです。
実はこれは温暖な気候で、島国ニッポンの戦争ルール、日本標準です。
世界標準では、戦争は皆殺しだったです。
だから日本のお城と違って、都市ごとすっぽり城壁で囲んだのです。
本メルマガ第14号でも、そのことを紹介しました。
例えば、旧約聖書の次の記述です:
『われわれは彼のすべての町を取り、そのすべての町の男、女および子供を全く滅ぼして、ひとりをも残さなかった。』(申命記・2章34節)
日本の戦国時代など、世界標準からしたら、平時の「小競り合い」みたいなものです。
余談ながら、先述の平和帝国インカ・マヤの戦争は、日本よりも穏やかでした。
戦闘員はお互い王族・貴族だけで構成された100人程度、戦場は密林でした。
時代劇の映画に出てくる「ヤクザの出入り」レベルで、勝敗を決したようです。
かたぎの方(一般市民)には迷惑をかけねぇぞ、って考え方ですね。
さて、「悪いヤツほど世にハビコる」とは、よく言ったものです。
武士間の戦争、例えば源平の戦いでは源氏が勝利しました。
ここで源義経がとった戦法、精兵70騎を率いた平家本陣へ奇襲です。
有名な「鵯越の逆落とし」で、平氏軍は大混乱に陥りました。
しかし当時としては、奇襲攻撃は卑怯な戦法だったのです。
「やぁやぁ吾こそは…」と、名乗ってから戦闘を始めたくらいです。
決勝戦である壇ノ浦の水軍戦でも、源氏は卑怯な戦法をとりました。
源氏は、当時禁じ手であった敵舟の漕ぎ手を集中的に射ったのです。
漕ぎ手を失った平氏水軍の動きは、止まってしまいます。
そこで敵舟に跳び移る、これが「義経の八艘跳び」の真相です。
ところが勝てば官軍で、義経は後世では英雄になります。
先述の「農閑期に戦争する」ルールを破ったのは、織田信長でした。
信長は、職業軍人の軍隊を組織して、年中攻撃しました。
だから、戦国の覇者になれたのです。
後の徳川家康は、狸オヤジと揶揄されるくらい、謀略家でした。
だから小早川を寝返させるなどして、関が原で勝利したのです。
(もっとも中国では、三国志の時代からこのパターンですが…)
本来、戦争は政治の一手段であって、ルールがあります。
ところが、歴史が進むにつれて戦争モラルが低下したのです。
近代でも、「国際法という戦争ルール」がありました。
というか、戦争は皆殺しの世界標準が、見直されたのです。
ところが太平洋戦争で、国際法を遵守しなかったのはアメリカです。
しかし勝てば官軍で、東京裁判で悪者になったのは日本でした。
さらに最近のイラク戦争などでは、国際法が形骸化しています。
これらに関しては後日、本メルマガで取り上げる予定です。
★★ おわりに ★★
もう少し話を先に進めようと思っていたが、メルマガ発行をあまり引き伸ばしても問題であろう。
これでも現在、深夜の2時である。
文才がないため、執筆に時間がかかるのです。(笑)
それにあまり長文になっても、読者もお困りでしょう。(再笑)
どうか次回を、ご期待ください。
「月刊・沈黙の兵器」
★まぐまぐ!サイト: http://www.mag2.com/m/0000150947.html
★発行者のサイト: http://www.geocities.jp/akion200104/
★執筆者のサイト: http://www.geocities.jp/untilled/
(←バックナンバーが見やすいよ♪)