「マイ・ターニング・ポイント  母を亡くして」

            −−−父の「自分史」発行によせて(1991年夏)
 1.転機

 私は民間ベースのスペースシャトル計画へ参加することになった。

 一九九二年十一月八日午前七時に米国カリフォルニアのエドワード空軍基地より打ち上げ予定との通知を受け取ったのは、一九八四年の冬であった。
 その年は春に母を亡くしている。僅かとはいえ母の長年の汗と節約の結晶である遺産の整理も一段落して、仏壇に向かって般若心経を唱える日課の後、私がテレビをみていると、
「アメリカで民間人からの宇宙旅行を募集している」とのニュースを聞いた。
 私は直ちに応募先を問い合わせ、その晩には国際電話を入れて申し込んだのである。費用は五万五千米ドル、その時の為替レートによれば日本円で千二百万かかるという。しかし母の遺産が丁度それくらいあったので、これはなにか母からの霊示にすら感じることができた。

 その頃から私は電気・電子工学について猛烈な勉強を開始した。寝食も忘れる程の勉強の結果、今思えばオームの法則すらまともに理解していない状態からわずか三ヶ月で難関と言われる「電気主任技術者」、さらには「情報処理技術者」の国家試験に合格した。そうした資格をもって、電子制御関連の商品を開発生産する、さる中堅企業の研究開発部に就職したのである。

 そのような私の「変貌ぶり」は、実は私の目的が単に「宇宙に行く」ことではなく、「宇宙に住む」ことに起因する。宇宙移住計画そのものへの参加である。その時には何か特定の分野のエキスパートであることが要求されるからだ。
 エキスパートになるためには次の二つの要件を満たす必要があると私は考えた。第一に、まずその分野が好きであること。長い間、好きでもない分野で仕事をする経験をした私には、絶対条件に思えた。第二に、現実に今からでも職業的に行えること。例えば物理や天文学が好きだといっても、いまさら大学で勉強をやり直すには経済的にも大きな問題があり現実的には不可能である。だからといって独学も無理である。以前、一日中本を読んでいられる仕事をしたが、書物だけで現実の役にたつエキスパートになれる訳もない当り前の事実を学んだだけであった。
 そしてこの二つの要件を満たす分野は、物理学に最も近い電気・電子技術の仕事しか考えられなかったのだ。

 2.電子技術者として

 こうして何とか電子技術者になった私はIC(集積回路)の設計を担当することになった。ただし担当者は私ただ一人であり、VAXというこの世界ではちょっと有名な高性能コンピュータと膨大な英文マニュアルの前に孤軍奮闘する日々が続いた。ただNEC等が提供する技術セミナーには時々参加させてもらえたので、そこで多くのことを学ぶことができた。お金を貰って好きな勉強ができる!。どうして今までこの世界に入らなかったのだろうと私は悔やんだ。

 IC設計を担当させて貰ったといっても、そうなるように頑張ったからである。私の正式な入社は三月二一日からであったが、一月前くらいから少しでも早く会社の仕事を覚えるよう(給料は貰えないが)自主的に出社していた。そこで部長の机の上に一通の案内状がきているのを発見したのである。外資系のICメーカーからのものであり、通常は二十万円以上するIC設計のセミナーが今回に限り無料であるという。私は熱心にこのセミナーに出席させてくれと会社に申し出た。受講料が無料であったせいか、私の願いは叶ってそのセミナーへ行けることになった。
 そのセミナーは五日間コースであり、大阪京橋に完成したばかりのツインビルの二十階にあるオフィスで開催された。東京本社のIBMメインフレーム(大型電算機)に専用回線を通じて接続された端末が何台も置いてあり、英文テキストを使って行われる講義は、「が、は、の、です」くらいが日本語で他はすべて英語、と言っても不思議ではないような国籍不明の言葉が使われる。
 参加者は私を含めて五人であった。この程度の人数であると、どうしても昼の食事は一緒にすることになる。名刺交換では私はまだ名刺すら持たせてもらっていないので、今切らしていると嘘をつき、相手の名刺を受け取り驚いた。大阪大学教授、松下電器中央研究所..云々。
「どうして技術者一年生が大学教授と机を並べて勉強せなあかんのや」
 これはエライ所にきてしもた、と気付いた時はもう遅かった。休み時間に彼らが話す会話の半分近くは私の知らない業界用語であったので、私は寡黙でいるしかなかった。ただ黙っているのでは面白くないので、一度彼らの口から発せられた言葉は意味も分からぬまま丸暗記することにした。すると二度三度使われるうちに前後関係から少しづつではあるが、正確ではないにしても推測できるものがある。どうしても分からぬものはそれとなく尋ねる。会話の文脈が見えてくる。となれば段々面白くなる、といった具合いで少しずつ業界用語を覚えていった。
 セミナーの修了条件は、ファーストキャリィルックアヘッド付き十六ビットアッダーをCADを使って自力で設計できることである。と言えば難しく聞こえるが、要は足し算をする初歩的な回路を作ってみようということなので、私は無事に修了書を手にすることができた。会社にも出張報告書を提出した。そうなると会社の方も、私の熱意とセミナー修了の実績の前に、私をIC設計担当にせざるを得なかったのだ。

 実は私の以前にIC設計の先任者が一人いた。彼は京大卒のベテラン技術者で、さる大企業からの出向でその会社に二年近くいたのであるが、結局目的とするICを完成させることなく去ったのである。その後に私が入社したのであるが、果して技術者一年生の私に、ベテラン技術者ですら完成できなかったような大役が務まるかが問題であった。
 その当時、IC専門メーカー以外の企業が独自の用途に合ったICを設計するという所謂ASIC技術は、生まれたばかりであった。新しい技術というのは最先端技術であるから、技術者一年生が参与する余地など有り得ないように一見思えるが、実はベテラン技術者にとっても経験のない技術であることを意味する。しかも私には先任者が残してくれた資料と、ここ最近ICメーカーらによって急激に整備された開発環境があった。そうした幸運に支持されて、結局それから一年と少しの間に三種類のICの設計を担当し、何れも会社の期待した仕様以上のものを完成させることができた。極真空手の訓練を通じて身につけた「石にかじりついてでも」成し遂げるファイティングスピリット(ちなみにICはシリコン、つまり石で作られている)を発揮したことも役立ったように思う。

 3.ファジィとの出逢い

 会社に一九八七年春から勤め始めてすぐの頃である。その年の秋にNASA(米国航空宇宙局)のスペースアカデミーにおいて例の宇宙旅行のための訓練があるというので、私は当然参加することにした。普通なら入社したての新入社員が長期間私事で会社を休むだけでも問題があるのに、私の渡米の意思は固く、そればかりか会社として米国に出張する用件はないかと会社に申し出た。出張ならば少なくとも往復の航空機運賃が助かるという厚かましい算段である。すると社長が、
「ならば自分で出張の仕事を作れ」
というので調べてみると、会社では、ある精密工作機械の日本での販売を検討していた。その工作機械は、米国で設計され台湾で生産されている。

 丁度その頃、会社の社長の伯父に当たる方が熊本大学のある先生とたまたま知り合いになられた縁で、その先生が会社を訪問された。私はIC設計技術者ということで紹介されVAXコンピュータを使ってデモンステレーションをした。私が社内で最も多く先生と接することができたのは、ICの設計技術が先生のご専門に最も近かったからだ。その先生はファジィ理論と言うものを応用した制御器を研究されていて実際そのハードウェアを開発され、次はそれをIC化しようとされていたからである。当時ファジィ制御は新しい技術で、コンピュータ技術者の中にも知らない人が少なくなかった。私がファジィに大きな関心を示すと、
「秋にカリフォルニアでの学会で発表しますから来られたらどうですか」
とお誘い下さった。単なる社交辞令だったのかも知れない。具体的な学会の日程をお尋ねすると、なんと私のスペースアカデミーでの訓練の直後ではないか。抜群のタイミングである。

 そこで私は会社に、例の精密工作機械の操作技術修得と英文マニュアルの翻訳は私が担当したい事、ファジィ制御技術はこれから注目すべき新しい技術であるので是非わが社でも取り組むべきである事、故に工作機械メーカーへの研修と熊本大の先生がご出席される学会へ参加するために米国へ出張したい旨をレポートにまとめるとともに口頭でも強くアピールした。
 会社の方でも何か新しい技術に取り組もうと考えていた矢先であったので、そうした熱意は簡単に歓迎されて、私は晴れて会社の仕事として渡米させていただけることになったのである。

 4.スペースアカデミー

 スペースアカデミーがあるアラバマ州のハンスビルにカリフォルニアのサンノゼ空港から飛行機をダラスで乗り継いで到着したのは、十月二四日の夕刻であった。ランディングから機体が停止するまでの間、時速百キロ以上の速さで十分間位も地上を滑走するという馬鹿デカイ所で、降り立った所から見渡す限り、空港の小さな建物以外は建造物らしいものが何一つ見えない、予想以上の片田舎であった。
 実は私の不安は搭乗前からも含めると二つあった。一つは利用した飛行機の機体が使い古されて老朽化も甚だしく、窓ガラスなどには無数の細かい傷があること。二つ目は途中の空港作業員の「いい加減な」荷物の取扱いを見ていると、本当に私の荷物がラゲッジクレーム(荷物受取り所)にたどり着くかということであった。幸いにも私の不安を裏切り、到着してから半時間以上も経って私の荷物はラゲッジクレームに姿を現わした。
 その頃別の不安が頭を擡げてきた。迎えの車が来るはずだが、約束の時間を少しまわっているのにそれらしい車はいない。だいいち私以外にも誰か参加メンバーがいてもおかしくないのに、小さな空港は既に閑散としている。タクシーを拾おうにもそんなものは見当らない。私の不安が少し本格化してきた頃、どこからともなく洒落たマイクロバスが現われて、
「マリオットホウテル!」と運転手の男が叫んだ。
迎えのバスだ。とたんに私の視界からは見えなかった所から数名の男女が集まってきてバスに近づいた。恐らく今回の参加メンバーの仲間達である。運転手は私達の荷物を手際よく車に載せると座席の扉を開けた。座席は向かい合って座るようになっている。全員は乗り込むと同時に気さくにお互いの自己紹介をしてすぐに打ち解けた。ここがアメリカ人の素晴らしい特技である。私は感心するとともに、おかげでマリオットホテルに着くまでの一時間ばかりの道中少しも退屈しなかった。
 ホテルに到着すると早速レセプションパーティが開かれた。肉は食べないと手紙に書いておいたせいで、私にはコウロギが食べるような「特別メニュー」が用意されていた。私は少し不満を感じながらも、シャンペンのうまさに疲れを忘れた。

 翌朝午前六時から「訓練」は開始された。マリオットホテルのすぐ隣にスペースキャンプと呼ばれる施設がある(帰国後のことであるが、このスペースキャンプの訓練内容が映画化されて日本で一時ブームになったことがある)。この施設には、実物大のシャトルのシミュレーターなどが置かれているのである。
 その施設へ着くとまずNASAのジャンプスーツが配られた。写真などで本物の宇宙飛行士が着ている青色のツナギのような服である。肩や胸にNASAとわかるロゴやパッチ(ワッペン)が付いていて、はっきり言って格好いい。
 「訓練」の内容は、講義・実技・映画などである。私達は宇宙飛行士として訓練を受けているのではないので、あまり専門的で特殊なものがあるわけではないが、一通りの例えば「マルチアクシス」や「無重力歩行訓練」などがある(この程度のものは最近日本でも北九州あたりに完成して、誰でも体験できるらしい)。それらは思ったよりも大袈裟なものではなく、ちょっとした遊園地の気分であった。
 しかし一番苦労したことは、シャトルのシミュレーターでの訓練であった。実際の宇宙での作業を、みんなで役割を分担して模擬的に実演する(これも考えようでは学芸会みたいなものであるが)。私はペイロードスペシャルという役割をした。シャトルの船内で各種の実験をしたり、時には宇宙空間で作業をするアレである。交信は無線で行われる。しかし私には無線を通じて受ける早口の指示を聞きとれないことがしばしばであった。その度に聞き返すこともできず、その時間はほとんど拷問であった。
 スペースキャンプでの訓練は早朝六時より夜十一時まで時間割が詰まっており、それが約一週間続けられた。蛇足ながら、ドイツのテレビ局がその間ずっと取材にきており、恐らくドイツ全土にその訓練風景は放映されたはずである。またある時昼食が終わってロビーに行くと日本人旅行者に出会ったので、懐かしくなり思わず声をかけた。向こうもNASAのジャンプスーツを着た日本人が現われたのでびっくりした様子であった。久しぶりの日本語に私はとてもリラックスできた。

 スペースキャンプを後にしてアトランタ空港を経由し、私達は次の目的地であるテキサスヒューストンのジョンソンスペースセンターに向かった。ヒューストンのヒルトンホテルにつくと早速ランチョンパーティが開かれた。要所にパーティが入るのがミソであるらしい。
 私はホテルの給仕がすべて黒人であることに気付いた。それに対して、宿泊客に黒人は一人も見あたらない。南部はそうであると聞いてはいたが今だに黒人は下働きになのだ。パーティの後私達は半日の自由時間が与えられたので、ルームメイト達とショッピングに出かけることにした。
 一時間近くタクシーを待ってからフリーウェイを半時間ほど突っ走りようやく街にでると、私達はかなり広いスケート場を飲み込んだ巨大なショッピングモールに入った。帰りの集合時間を決めてから、私達はめいめい勝手にその中をブラつくことにした。
 そこで私は土産を買っていると、突然強烈な便意が襲ってきたのに気付いた。が広大な敷地内のどこを見渡してもトイレらしい所がない。やっと見つけると工事中である。案内デスクがあったので、教えてもらった場所へ行くと、部屋のなかには便器も何もなくガランドウではないか。再度案内デスクで訊ねて、はるか向こうのブロックのトイレに行くと、唯一の「大」用に何人もが並んでいる。しかも用をたして座っている男の横に低い衝立てがあるだけで男の前方に扉はなく、前の人から丸見えではないか。
「とてもついていけない」と考えて外に出た。
途方に暮れていると日本製陶器を売っている店が目に入った。経営者はやはり日本人だったので借用をお願いするとなんと断わられてしまった。そこで隣のビルまで行くことを思い付いたが、行くと入口に鍵が掛かっている。絶体絶命だ。幸運にも人が出てきて扉が開いたので、怪しまれないように何くわぬ顔して中に入り、遂に清潔で個室のトイレを見つけることができた。
 時計を見るとなんともう帰る時間ではないか。この時から私は、海外旅行では朝必ずホテルで「大」を済ますことを鉄則としている。

 ヒューストンでは本物のミッションコントロール(中央管制室、宇宙船に「こちらヒューストン」と交信するのを聞かれた方も多いと思う)や月の石などの見学をした。二泊ほどした後、今度はアリゾナのツーサンに向かった。アリゾナ大学での見学や講義の後、NASAがサポートしているバイオスフィアUという名前の宇宙実験農場での研修を受けるためである。
 ツーサン市はメキシコ人が多く、レストランの給仕はたいていそうである。しかも英語が通じない場合が多い。アリゾナ大学での日程の後、バスに三時間以上揺られて、私達はバイオスフィアUに到着した。海抜千メートル近い山の頂にあるこの農場はまさに広々としており、花とサボテンに囲まれ、野鳥や野生の動物を多く見ることができた。ハミングバードの上下に搖れるような独特な飛び方が印象的である。目の前には海抜千メートル以上の山々に囲まれた盆地が広がっており、京都市が数十個は楽に収まるであろうと思えた。夜になると遥か向こうにツーサン市の灯が小さく見えるのみである。
 このバイオスフィアUでは、「温室」に似た広い建物のなかで、農作物を生態学的に完全に隔離し、しかも化学肥料や農薬を一切使用せずに栽培しようという試みである。その農作物の世話をするため、もうすぐ二組のカップルが七年間もその中で同様に隔離される計画が、実行に移されようとしていた。
 農作物の「出来」があまりに見事だったので、本当に化学肥料や農薬を一切使っていないのかを何度も念を押して聞いた。すると、
「ノー、ナットァットオール」
との返事である。だとすれば日本の農家は何のために化学肥料などを使っているのであろう。肥料会社や農薬会社の利益のためかも知れない。
 ところで、
「バイオスフィアUがあるならTは何か」
と誰かが質問した。
「バイオスフィアTは地球そのものである」
との解答であった。地球から食料物資の援助も受けずにポッカリと宇宙空間に浮かんだ緑の宇宙都市。ロマンチックな空想を私は抱いたが、あることに気付いてその空想は萎んでしまった。
「ひょっとして地球から食料物資などの援助が受けられなくなるような状況を設定しているのかも知れない」と。

 スペースアカデミーの最後の日程の前日、私達はチャペルの洒落た庭でリーダーを囲んでパネルディスカッションをした。皆一人残らず積極的に発言して、日本人との違いを感じたものである。
 私に今回の感想を聞かれたので、
「私は不安を感じながら参加したが、すべてが広々としたアメリカで、親切で気さくな人々に囲まれ、充実した時間を過ごすことができた。感謝します。いま私は、心から合衆国のことを好きになりました」
と言ったところ拍手がしばらく止まなかったことを憶えている。
 それから各自記念撮影をした。コダック関連会社の社長は愛用のニコンで撮りまくっている。記念の寄せ書きのための色紙が用意され、皆なそれにサインをし記念文を書いた。私は日本語で書いた。あちこちで抱き合って別れを惜しむ姿が見える。小羊かなにかが丸ごと焼かれてバーベキューが始まった。
 日が沈むと広間に移ってカクテルパーティとなり益々雰囲気が盛り上がる。シャトルの絵が描かれた大きなケーキまで現われたのには驚かされた。その晩はルームメイトと遅くまでシャンペンを飲んで語り明かした。

 こうしてスペースアカデミーでの日々は、私にとって忘れ得ぬ素晴らしい思い出の一つとなった。NASAのジャンプスーツで外にでると、握手を求められたり、あるレストランではサインをせがまれ、少しくすぐったい気持ちも味わった。
 ちなみに私の宇宙フライトは一九九二年十一月八日の予定であったが、シャトルの事故や資金的な問題のために無期延期になる通知を、その渡米から二年後に受け取った。非常に残念なニュースであるが、私の本来の目的は「宇宙に住む」ことにあるので、気を取り直すことにしている。

 5.アジロマ国際会議

 カリフォルニアに戻った私は、日本で知り合ったキャシィやその友人パティ達とサンフランシスコでの休暇を一日楽しんだ後、彼らの車に乗せてもらって、モントレイのアジロマに着いた時は、もう夜の十時をとっくにまわっていた。熊本大学の先生には七時頃に着くと言ってあったので、大幅な遅刻である。

 アジロマコンフェレンスセンターは会議専門に使われる宿泊施設らしく、ホテルというより別荘地か山荘ロッジといった佇まいであった。予約はしてあるのでフロントに到着を伝えると、キーをくれて私の泊まるロッジの所在を説明してくれた。私が最後の予約客だったのだろう。フロントマンは車で帰って行った。熊本大学の先生の部屋に行ってみるとまだ灯が点いていたので、しばらくぶりの日本語の会話を楽しんでから私のロッジに向かった。途中木立のなかで動く大きな影があったので、目を凝らしてよく見るとなんとシカであった。
 部屋に入ると、広さが熊本大学の先生の部屋の二倍はあり、瀟洒な家具も並べてある。壁には映画で見るような大きな暖炉まである。宿泊料は先生も同じはずなので、私の遅い到着のおかげで「残り物に福」を得たようだ。私は自分の幸運に満足しながらカウチに座ってリラックスした。シャワーを浴びて、荷物を整理してからベッドに潜り込むと、あることに気付いた。
「寒い」
 思えばもう十一月であるから夜は冷え込むのは当然である。
「仕方ない。暖炉の火を燃やそう」
 そう考えて暖炉の近くに置いてある太い薪を着火し易いように積み立てて、間隙に新聞紙を挿入してからマッチで火をつけた。さらに燃焼を煽るように雑誌を丸めて筒を作り、口に当てて息を吹きかけた。私は子供の頃からこうやって五エ門風呂を焚いてきたのだ。火は勢いよく燃え上がり、私のこれからの快適な睡眠を祝福するかのようであった。
 ところが神は私を見捨てたかのように火はやがて消え、薪に着火されなかった。薪が太すぎるのだ。「何でも大きいアメリカ」の薪には私の着火技術が通用しなかったのだ。私は愕然として、更なる量の新聞紙や有りったけの紙類を投入して再度挑戦した。が駄目である。薪が湿っている風でもない。もはや、紙の類は重要書類を除いてなくなった。時計は零時を過ぎており誰かを呼ぶのは望めない。とりあえず部屋を出てみると廊下の向こうに棚があり、トイレットペーパーを数個見つけることができた。それを使って最後の抵抗を試みたが、やはり駄目であった。なにか私の知らない特別な着火技術があるに違いない。しかし何度も紙を燃やしたので部屋は幾分暖かくなったようだ。今のうちに眠るしかない。私は自分の不幸を呪いながらベッドに入り、毛布を被って急いで寝た。

 このアジロマに私は三泊した。会議は一流の電子技術研究者の発表の場であり、名刺を交換すると必ず「博士」であった。そこで私は多くの「博士」と名刺交換をして、語り、食事を共にした。ファジィ理論創始者のザデイ博士とも夕食を共にした時は緊張も極限に達した。社交家でもある熊本大の先生が私のことをうまく取り繕って下さったので、そうした中でも「宇宙に行く技術者」ということで変な市民権を得ていたように思う。
 会議では人間の神経回路網を模した「ニューロ」なるセッションに人気が集まっていた。ファジィの方のセッションはどちらかと言えばマイナーで、日本でブームになっていることを思うと対照的であった。会議の発表は当然に英語で進められ、日本語で聞いてもきっと難しい内容ばかりであったので、私のそれまでの不勉強を後悔するとともに、いつしかこのような場で発表できるような自分を夢みた。
 ファジィ関係での日本人の発表は四人であった。その内二人は日本人といってもアメリカに住んでいる方々である。日本からきた後の二人が、熊本大の先生と法政大の先生である。熊本大の先生の発表は、独自に開発された例のファジィ制御器に関するものであった。法政大の先生の奥さんが、
「有川さんも何か発表に来られたのですか」
と訊ねられたので、とんでもないと答えた。技術者一年生の私が国際学会で発表なんてとんでもない、という意味である。まさか自分がそれから一年も経たないうちに、別の国際学会で、違う方式によるファジィ制御器を発表することに至るとは、まさに夢物語であったのである。

                                      (マイ・ターニング・ポイント 完)
 《追記》 私が1988年8月に国際学会で発表した、文末の「違う方式によるファジィ制御器」は、その後、家電レベルのファジィ応用の大部分の方式に採用され、計測自動制御学会に次の論文として掲載されました。
アドレスルックアップ仮想ページング方式によるファジィ推論チップ
(計測自動制御学会論文集,Vol.26 No.2,pp.180-187, 1990.2)

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