「マイ・オールド・デイズ  母に連れられて」

            −−−父の「自分史」発行によせて(1991年夏)
 1.佐世保から

 私の父母は、私が4才の時に離婚した。
 そのことはやはり、私の幼児体験上の大きな事件だったような気がする。
 父は、母と私を国鉄佐世保駅まで見送りにきてくれた。私たちがプラットホームにいると、蒸気機関車の機関士が私に話しかけてきた。
「ねえボク、機関車のなかを見せてあげよう」
 私はせっかくの申し出に対して、無言で母の後ろに隠れた。
 やがて私達の乗る汽車が到着すると、母と私は向かい合って窓辺りに座った。汽車が動き出すと、窓の外から父が、
「元気でな」
と、声をかけてくれた。
 私は黙っていた。かわりに涙がひとつこぼれそうになったので横を向いた。母が後で、あれ程大きな涙の粒を見たことがないと感想をもらした。しかし父にはその涙を見られなかったと思う。
 それが私が生まれて初めて汽車に乗った日だった。
 トンネルに入ると、窓を開けていたので、機関車の吐き出す煙が入ってきてススで顔が汚れた。急いで窓を閉めてから私達は顔を見合わせ、ようやく笑いながら言葉を交わした。
 こうして母と私の二人だけの生活が始まったのである。

2.岩国市にて

 母は岩国で「下宿屋」なるものを営んだ。親戚や銀行から金を借りて家を建てたのである。佐世保を出てから一年ほどしか経っていなかったので、世間では、母が離婚前にヘソくっていたか慰謝料でも貰ったのだろうとカンぐる人もいた。
 しかし実際は佐世保を出る時、母は五万円ほどしか持っていなかった。
 ただ着物や貴金属の類は、父母の商売がうまくいっていた頃、ある程度買ってあったので、母はそれを風呂敷に入れ、私の手をひいて、近くの田舎に行商して歩き、現金を得た。細くて長いトンネルをしばしば通ったので、山村が多かったように思う。途中の駅には必ずといって良い程、片手か片足の無い「元日本兵」が金を乞うて座っていた。

 「下宿屋」には多いときで十人以上はいたように思う。進駐軍の将校と日本妻、それに基地のバンドマンといった人達であった。
 母は彼らの食事をつくるために、毎日こまネズミのように働いた。マキを割って五エ門風呂を焚くのは私の仕事である。
 下宿の人達には必ずご飯が出るが、私達はたいてい近所の農家からタダ同然で買ってきたイモを食べた。
「美味しそうなおイモねえ」
と褒めると、人のいいお百姓さん達は、イモ一貫目のところを五貫目くらいまけてくれるのだ。母は私にイモばかり食べさせたことを、後で苦労をかけたかのように詫びたが、私はイモが好きだったので少しも苦にはならなかった。

 小学校に入ると父は私に自転車を送ってきてくれた。私は嬉しくて毎日それに乗って遊んだ。錦帯橋あたりとかにも「遠出」した。国道以外にはほとんどクルマも走っていなかったので思う存分乗れた。軽のタクシーが三十円の時代である。
 今のようにテレビどころかラジオもなく、兄弟もいない家の中での私の「遊び」は、読書と空想だった。本といっても拾ってきた古本である。
 ある時セールスマンがやってきて、母は「科学大観」というシリーズ本の購読の契約をした。それから毎月送られてくる本に私は首を長くして待った。とくに「宇宙」をテーマにした巻などは本に穴が開くほど何回も読んで、私の心は太陽系から遠く銀河の果てに翔んだ。
 またある時、ターザンの映画が巷で流行っているのをみて、私はおそるおそる母に頼んでみた。すると母は、
「世の中に映画というものがあったのね」
と言ってすぐに連れていってくれた。私はこの世に、こんな楽しいものがあることを初めて知って感動した。それから母はたまに私を映画に連れていってくれた。

 大人になってから岩国に立ち寄って、その「下宿屋」を見に行ったら、二十五年ほど経っているのになんとまだ建物が残っていた。そしてそれが、あまりにも小さな建物であったので驚いてしまった。幼少の私にはかなり大きな建物に思えていたのだが・・。見ると家の前のいちぢくの木も残っている。根元には、私と仲良しだった犬のシロが眠っているのだ。国道でトラックに轢かれて死んだので、私がそこに泣きながら埋めたのである。

 しかし数年後もう一度そこに行くと、その建物もいちぢくの木もなかった。

 3.京都へ

 伯父は私達が京都へ出るのを反対した。
 しかし母は私を一流大学に入れるためには都会で教育を受けさせるべきだと主張した。私の学校の成績が「抜群に優秀」であったので、こういう場合の母親はご他聞にもれず過剰な期待を息子に寄せるものである。
 それに対し伯父は、
「都会に行けば誘惑が多く、かえって勉強が出来ない」と言う。また伯父は、
「いま家を建て、うまくやれたからと言って、都会で女手ひとつでゼロから再出発するなんて、柳の下にいつもドジョウはいないぞ!」と厳しく窘めた。
 しかも母は私を帝王切開で産んだ産後の肥立ちが悪くて、慢性腸閉塞を併発し、計四回もお腹を「切腹」したので、私が成人するまではとても生きられないと医者から宣告を受けている身なのだ。
 だから母は離婚して旧姓「有川」に戻ったが、母の身にいつ何が起こっても私が父の元に帰れるように、私は大学に入るまで父方の姓「中村」を名乗ることとなる。
 「有川家」には、一度「信念」をもって言い出したら梃子でも引き下がらない人が多いようだ。母もその時は「信念」をもっていたようだ。結局私達は伯父の反対を押し切って、岩国の家を処分し、大阪の叔父を頼って大阪に向かった。そして母の知人の誘いで、京都洛南にある八幡町に落ち着くこととなる。私が小学三年の時である。
 まず住み着いたのが、母の知人が所有する山の中腹であった。私は自然の中で思いっきり遊べるので有頂天であった。昔見たターザンの映画のように、木から木にロープで渡って遊んだ。秘密の隠れ家も草木で作った。秋になれば、そこらじゅうにある栗の木から腹一杯に栗を採って食べた。小学校には山から下りて通わなければならない。こうした山の生活が私の足腰をかなり鍛えたように思う。

 母は八方手を尽くして、京阪電車八幡町駅前の「京阪売店」の営業権を手に入れた。と言っても早い話が昔の駄菓子屋である。私は母の手伝いとして、朝は店の重い建具を何枚も開けて裏手に運んでから(今ならシャッターで簡単なのだが)小学校に通い、夕方学校から帰ると店番をしながら本を読んだ。
「おばちゃん、十圓でなんか頂戴」
と子供がくると、本を読む手を休めて店に出ていくのだ。八時くらいまで営業をしてから、朝と反対に建具を裏から運んで店仕舞いを手伝った。
 正月ともなると石清水八幡宮があるおかげで店は大繁盛する。茹で玉子や蜜柑を網袋に五個程度詰めて売るのが私の担当である。それは面白いように売れたので、大晦日など徹夜で働いても苦にならなかった。
 そうした手伝いがあったからでもないが、私は学校の宿題を殆どしなかったように思う。しかし試験をすれば「殆どいつも百点」であったし、家庭の事情も考慮して下さったのか、先生はそのことで私や母に何も言わなかった。

 そのうち母は喫茶の営業許可をとって、店の一画に「ミルクパーラー」なるものをオープンした。おそらく八幡で初の「喫茶店」だったのではなかろうか。といっても四畳半程の狭いスペースであるが、電車の時間待ちの少しの間に利用する客でこれも繁盛した。  おかげで六畳と三畳の安アパートを借りることができたので、私達は山を下りてそこに居を移した。ただしトイレや炊事場は共同という代物である。しかし山の生活は、今でいえば難民キャンプのようなものだったので大変な進歩である。しかも母の伯母にあたる「お婆ちゃん」まで引き取って暮らすことになった。家族も増えたので私は大満足であった。
 ある時、その「ミルクパーラー」のお客に高校生くらいのお姉さん二人が来て、私達に人懐っこく話しかけてきた。店の奥まで入ってきて、二畳ほどの畳間に座っている「お婆ちゃん」にも優しい言葉をかけてくれるのだ。一人が肩まで叩いてくれた。もう一人は新聞を開けながら私に楽しい話をしてくれた。やがて二人が帰った後、その新聞を開けた場所の下にあった机の引出しから、店の売上げがごっそり消えていたのである。私は、伯父の「都会」に対する警告を思いだした。

 石清水八幡宮に登る表参道の入口に名も知らぬ神社がある。徒然草の昔、「仁和寺のある法師」が八幡宮の本殿と早合点したという神社である。小学校から「京阪売店」に帰る途中、私はそこをよく通った。雨が降らない日ならばその神社の片隅に白い天幕で四方を囲まれた「店」が出る。天幕の内は見えないがその白い布地に顔や掌が説明付きで描かれているところから、営業主は普通の露店商ではなく易者であると想像できた。
 ある日雨が近そうな雲行きなので天幕を畳もうとしていたのか、いつになくその「営業主」は外に出ていた。見ると長い白髭を蓄えた翁で、いかにも易者らしい。私が興味本意で見ていると翁と目が合った。とたんに真剣な顔つきで私に近付いて来るではないか。興味本意な気持ちを見透かされたようで私は狼狽し、その場を逃げだした。ところが早足で後からついて来る。私は「京阪売店」の奥へ逃げ込んだ。その翁は母と店の外でしばらく立ち話をしてから帰って行った。後で母に聞くと、なんでもその翁が言うには、
「お母さんが生きておられる間は息子さんは心配ばかりかける。しかし息子さんの晩年には哲学の分野において一定の仕事をする」
とのことである。母は自分の存命中における息子の親不孝ぶりを聞いて落胆したようすだった。

 「哲学」で思い当たるといえば、小学五年のその頃、私は「死」という事を真剣に考え、ニヒリズムにまで陥って悩んだ。人は死の恐怖から逃れるために宗教を信じ、信仰が病気を治すのは一種の暗示効果として心理学で説明のつく問題である(とその時は思っていた)。死は個人にとって「絶対的終焉」なのだ、と。尤も科学で説明がつくからといってそれが真理である保証はないのであるが、どうであれ「死」は厳然と存在し、いつしか母も自分もその時がくる。
 しかし母は「悩める子供」のそこまでの苦悩には気付かず、私の
「僕が死なない薬をつくるからそれまで死なないでね」
との言葉から、優しくて成績優秀なわが子の将来を大きく嘱望していた。
 私はその頃一方では「宇宙」のもつ神秘さに強く惹かれて、天文学者か理論物理学者になろうと考えていた。晴れた日に頭上を見れば、私にとってそこは「空」ではなく「宇宙」だったのである。まして晴れた冬の夜ともなれば、ミルキーウェイで二分される天空に、惜しげもなくぶちまかれた無数の宝石の輝きを、飽きることなくいつまでも見上げていたものである。

 ☆☆☆

 それから約四半世紀のち、母は他界した。

 母の死後、すぐ私は京都市内に家を買ってそこに移転した。あの美しい冬の夜空も、もはや都会では見ることができない。私もそのせいか「見上げればそこはただの空」と思う人になっていた。
 母がまだ死ぬ前のことであるが、私が小中学生時代に母と時々通った伏見の銭湯に母と久しぶりに行った。すると番台のおばさんは母を憶えていて、
「昔、服を脱ぐあいだも惜しんで本を読んでいられた息子さんは、いまどんな偉い人になられましたか」
と訊ねられ、大学すら中退してしまった不肖の息子が目前にいることを言いそびれたようだ。あの時の伯父の警告にやはり従っておけば良かったと思ったに違いない。あるいは例の易者の言葉を思い出していたのかも知れない。
 実際、母はその易者の言葉を思い出して、
「私は見ることはできないのに、お父さんは私より長生きして、晴彦のましな姿を見ることができるのね」
と、父に対して妙な嫉妬を漏らしたことがある。
 当たるも八卦の易者の言葉に、最後の期待をかける母の姿は不憫でもあった。

                                        (マイ・オールド・デイズ  完)

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