「イスラエルまでの長い道」

1.イスラエルまでの長い道

 中島氏の案内で、デュッセルドルフのアルトシュタッツ(旧市街)を夜遅くまで徘徊したのは、1993年10月9日のことである。店内の見える場所でビールを醸造し、それを販売するという、何ともドイツらしいビアホールと、そこに集まる人々(特にオバチャン達)の熱気に驚きながら、喉にあまりにもスーと入るビールの美味しさとその値段の安さに堪能した後、日本食レストランの一室で寿司を会食した。
 臨席者は、中島氏とその家族、それに九工大の前田先生である。
 前田先生とは今日初めてお会いしたばかりなのに、ケルンの大聖堂の観光などにご一緒したりして、すっかり意気投合してしまった。飾らない性格の、学者らしい素敵な方である。最高の一日だった。
 その前田先生はこれから10ケ月間アーヘンに滞在される。
 中島氏はまだ少なくとも2〜3年はデュッセルドルフにいるだろう。
 私は明日から3ケ月間の日程でイスラエルに旅立つ。彼らから見れば短い期間かも知れないが、事情が幾分か違う。中島氏は家族と一緒である。しかも三井物産という大組織がサポートしている。前田先生は少し足を伸ばせば、世界で唯一の正式な日本人学校まであるデュッセルドルフに来れる。
 私の場合はたった一人、準臨戦国?であるイスラエルへ行き、しかも飛行機自動着陸システムに関するファジィ制御のコンサルタントという、困難な使命を果たさねばならない。私にはこの寿司会食が、まるで“最後の晩餐”のようにすら思えてくる。やはり心細いのだ。

 私の心を支えているのは、少しカッコつけて言えば、仕事への情熱と未知の世界への冒険心であるが、中島氏と前田先生が隣で「最近は若い時のようにいかない」などと冗談をとばしているのを聞くと、不安が増幅される。しかしイスラエル最大の企業IAI社と仕事ができて、私の提案している“システムクロックを使わない高速ファジィコンピュータ”(世界最高速と私は自負している)が最適と思われる、航空機制御システムに採用されるかもしれない可能性を考えると、つい無理をしたくもなる。
 実は、私のイスラエル行きの意志を支える大きな要素が、まだある。私はこの20年近く、ユダヤ問題と聖書の世界に大きな関心を払ってきた。
 ユダヤ問題を、特にユダヤ「人」問題としなかった理由は、私の理解によれば、ユダヤ人と自称する人々の約9割が、実は血族的にはユダヤ人ではなく、ユダヤ教という宗教の信徒を意味しているからだ。しかも彼らは近代史に少なからぬ影響を与えてきた。そのユダヤの国へ行って、生の人々に是非会ってみたい。
 聖書の世界でのイスラエルへの関心と言えば、すぐにエルサレムなどのイエスの足跡と思われるかもしれない。勿論それもあるが、私の場合は、テルアビブの北東約70kmに位置する、とある丘にある。それは“メギドの丘”と訳されている丘で、黙示録に予言された世界最終戦争が行われる「ハルマゲドン」を指す地名なのだ。予言を信じるわけではないが、このメギドの丘へ是非行ってみたい。

 10月10日の朝が来た。ついにイスラエルのテルアビブへ出発する日だ。
 前田先生と朝食をとる。実は前夜、酒を飲んで遅くなったこともあって、先生はアーヘンのアパートには帰らず、私のホテルに転がり込んだのだ。この気さくさは九州人の長所である。
 9時に中島氏がクルマで迎えに来る。彼の面倒見の良さは尊敬に値する。
 10時過ぎにフランクフルト行きの列車に乗り込む。前田先生がケルンで降りた後、一人で席に座ると眠気が襲ってきた。フランクフルトへ行くには列車が良いと中島氏が勧めただけあって、ライン川のスペクタクルを眺めながらの鉄道の旅は眠るには惜しい。時おり古城が現われたりする。しかし結局、ライン川の景色の半分以上が、睡魔の犠牲となってしまった。

 午後1時前、フランクフルト国際空港の地下に列車が到着する。私のフライトは午後3時半であるから、昼食をとる時間はあるはずだ。その前にチェックインは早めにしておこう。と思ってイスラエル航空のカウンタを捜すのだが、フロアはとてつもなく広く、見当らない。JALカウンタの受付日本人に聞いてみたが、知らないと言う。インフォメーションデスクには誰もいない。案内板があったので、見て驚いた。その数、100社はあろうか。これ程多くの航空会社が、一つのフロアにひしめいて営業しているのを見るのは初めてだ。しかも少し大きなところは一社で20以上のカウンタを持っている(ちなみにJALは4つ程度)。比較的マイナーな航空会社のカウンタを知らない人がいても無理はない。
 ところがである。その案内板には「イスラエル航空」の名前が見当らないではないか。航空券にはLY358便と書かれているので、Lから始まる会社名も見てみたが、それらしいのはない。これは昼飯どころではないかもしれない。
 さんざん歩き回って尋ねて解ったことは、イスラエル航空は実は「El Al」と言い、略記はLYと書くというヤヤコシイ話(最近知ったが、イスラエル・エアラインからエルアイン、そこでLはエル、Yはヘブル文字!でアイン)で、しかも空港内部の搭乗ゲートで初めてチェックイン手続きをするという変則さだ。時刻はまだ午後2時前であったが、搭乗ゲートまでとても遠いので早く行けとも忠告された。仕方なく昼食もとらず、荷物検査を受けて搭乗ゲートに向かった。

 確かにテルアビブ行き搭乗ゲートだけは他のゲートより離れており、Cゲート奥の突き当りに位置するようであったが、大袈裟に言うほど遠くはないではないか。そう思って先に進むと、再び荷物のチェックポイントが現われた。自動小銃をもった兵士までいる。
 さすがイスラエル行きは厳しいものだなと感心していると、荷物を開けてみろと言う。パソコンを見つけると、メモリチェック(と私には聞こえた)をするからこちらに来いと言う。意味不明だが、逆らっても仕方ないので付いて行くと、洗面所にあるお手拭きの使い捨てペーパーのようなもので、パソコンの表面を丁寧に拭きだしたのである。そしてそのペーパーを器械で何やら検査しているようだ。一方では掃除機でキーボードの奥のホコリまで吸い出している。まさか冗談や善意で私のパソコンをきれいにしてくれている訳ではない証拠に、彼らは真顔である。他の人もビデオカメラで同様の「検査」を受けている。仮りに隠した爆発物を検出するために火薬の飛沫粉を調べるにしても、電子機器に限定して行っている様子なので納得がいかない。
 私は、狐につままれたような気持ちで成り行きを見守るしかなかった。最後に彼らは、パソコンを入れたケースを「セキュリティ」(安全)と書いたシールで封印した。

 ETの未知の技術に遭遇したような目眩を感じながらも、とにかくOKがでたので、ホッとして先に進むことにした。だんだん荷物が重く感じてきた。
 更に5分程進みエスカレータで下に降りた。ついに目的のCゲート69番に到着したようだ。結構大きなホールには、黒づくめの正統派ユダヤ人をはじめ、それらしい雰囲気の人々が列んでおり、自動小銃を肩から下げた数名の兵士が警備している。女性兵士までいる。先程のドイツ兵と違ってイスラエル兵のようだ。奥にチェックインカウンタが見えたが、何とそこに至るまでに更に荷物検査を受けなければならぬようだ。少しうんざりだが、ここまで来たのだからもう一安心だ。
 整理要員らしき女性が入口で待てと言うので、私はそこで「三脈法」を行うことにした。これは血流をチェックする密教の秘伝であり、近未来の致命的な事故を事前に察知することができる(らしい)。要するに火事の前にネズミがその家から逃げ出す原理である。よし異常なし!飛行機事故は大丈夫だ。

 思えばイスラエル行きは、もともと今年の3月に、IAI社から数名が来日したときから始まった。大阪電通大の水本先生が私を推薦して下さったこともあって、彼らのファジィプロジェクトのコンサルタントとして是非来てくれ、という話にまで発展したのだ。最初は7月位の出発を予定していたが、8月、9月と(夏休みも絡んで)何度も延期となり、ついに10月となった。担当者は恐縮していたが、大企業というものは手続きが煩雑であるらしい。しかも、10月に彼らが送った航空券が、出発のフライトまでに到着しないという不手際があった。そのためのフライト変更手続きも簡単ではなかった。

 整理要員と思った女性は、実は保安要員であり、イスラエル入国に関する厳しい質問を始めた。この荷物は全てあなたの所有するものか、誰かから何か受け取らなかったか、今日はどこから来たのか、その時この荷物をパッキングしたのは誰か、イスラエルには何の目的で誰と会うのか、などはほんの一部である。証拠となるような文書や今日の列車の切符まで提示させられた。
 しかし、途中から他の保安要員の男性も加わっての質問責めにも、今までの長い道程を思えば、数時間後にはイスラエルの土を踏むことができるのだから、さして苦にはならない。それより、もしプラスチック爆弾でも所持した確信犯がおれば、この程度の質問に対する証拠は充分揃えてあるだろうに、これで本当に大丈夫なのだろうか、などと逆に心配する余裕さえ感じだした頃、ついに質問責めから解放され、荷物検査となった。
 これも想像以上に厳しく、カメラを見つけると、本物かどうか実際に写してみろと言う。私はこの異常な雰囲気を記録に残しておきたいと思っていたので、むしろ喜んでシャッターを押した。
 チェックインまではとても遠い(ロングウェイ)ぞ、と空港フロアで忠告されたのを思い出し、それが決して物理的な距離を意味しただけではなかったことを私はつくづく了解した。

 荷物検査もパスして、私はついにチェックインカウンタの前に並んだ。ここまでくれば本当に安心だ。早く飛行機に乗り込んでシートに座りたい。正直かなり疲れてしまった。
 ところが、である。あと一人で私の順番だと安堵していると、どうも様子がおかしい。チェックインの窓口は3つ程あるのだが、なにやら乗客達がカウンタのスタッフと口論を始めた。ヘブル語らしく私には分からないが、一人はもう喧嘩腰だ。そのうちやっと英語が飛び込んで来た。
 「オーバーブッキング」・・・!  話には存在を聞いていたが、どうやら飛行機の座席数以上に予約を受け付けてしまったという、とんでもない話しである!
 見回すと、被害を受けた乗客(予定者)は約25名もいる。
 カウンタのスタッフが英語で叫んだ。
 「誓ってもいい。今日はルフトハンザでも20名のオーバーブッキングがあった。そんなに珍しいことではないから、私たちを責めないでくれ。すぐに別の便を手配する。それが明日になる場合は、近くのホテルを用意する。」
 明日だって?! 冗談じゃない。しかも、今日と同様の搭乗検査を明日も受けなければならないらしい。
 ああ、イスラエルまでは何と遠い道のりなのだろう・・。

 この後、事態は二転三転・紆余曲折であるが、思い出すだけで疲れてしまったので、簡単にまとめると、

 ●その日深夜のポーランド経由便が予定されたので、その旨IAIの担当者宅に国際電話(料金はLYもちだが一回線を長時間列んで使用)する。深夜で迎えに行けないからタクシーで一人ホテルに行ってくれと言われ、ますます心細くなる。
 ●ところが、明日早朝の直行便に変更となり、また長時間列んで、その旨IAI担当者に国際電話で知らせる。ホテルは空港前のシェラトンに宿泊(ルフトハンザのオーバーブッキング被害者組を合わせると総勢約45名)。
 ●ホテルではディナーが提供され、悪くない扱いを受ける。同じLYの被害者組の、南アフリカの白人マイクと知り合って、結構楽しく過ごす。
 ●ところが、私がホテルで熟睡した頃、LYより部屋に電話が入り、実は明日の昼の便に変更になったと伝えられる。但しギリシャのアテネ経由。
 ●アテネまではデルタ航空を使用。LYからデルタ航空への連絡不足で(なにせLYの航空券しか所持していないから)、チェックインにたいへん手間取る。
 ●空港でまたしても(パソコンへの例の不可思議な検査を含む)厳しい搭乗検査を受けた後、やっとアテネへ向けてフランクフルト空港を離陸する。
 ●アテネに現地時間午後3時頃に到着。バスで市内のホテルにチェックイン。
 ●短い滞在を有効に過ごそうと、若いドイツ人カップルと3人でタクシーを貸し切って市内見物へ。アクアポリスやオリンピック発祥の競技場などを回る。結果的に、タクシー代だけでギリシャ旅行ができたと考えれば良い、と自分を納得させる。
 ●ホテルでディナーおよび仮眠後、バスでアテネ空港へ。
 ●深夜1時すぎ、厳しい搭乗検査を受けた後、ついにイスラエルに向けて離陸する。機内に搭乗の際に、LYクルーより、(深夜にもかかわらず)IAIスタッフが空港まで迎えに来ています、との予期しない伝言を受けて、少し安堵する。
 ●深夜2時過ぎテルアビブ空港に着陸。機内から拍手がわき起こる(後で知った事だが、これは今回に限らず、イスラエル人の通常の反応らしい)。
 ●やや厳しい入国検査を受ける。
 ●空港の入国ゲートを出たとたん、MR.ARIKAWAと書いたプラカードを持ったIAIスタッフを見つけ、ついに到着した実感を噛みしめながら、彼の車でテルアビブ市内へ。
 ●深夜3時半、ホテルへ到着。日本より緊急電話が入っているので、国際電話をするようにと言われ(結局大した用事ではなかったが)、それを終えてベッドに着いた頃、夜が白けだしていた。
                 ・・・ イスラエルまでの長い道  完

2.テルアビブでの生活(一部まとめ)

 テルアビブのホテルに着いて、私は正直ガッカリした。外装やロビーはそれ程悪くないが、部屋は薄汚れてヒドいからである。とても落ち着ける所ではない。シャワーすらする気になれない。しかし気の弱い私は、「もっと良いホテルにしろ」等と単刀直入にはIAIに言えない。そこで料金が同程度の他のホテルを自力で捜したり、いろいろ苦労した。現在の悪くないホテルに落ち着いて、日本から持ち込んだパソコンを部屋にセットできたのは最近だ。それまで一時的に、マイケルジャクソンも泊まったという結構高級なホテルにも泊まらせてもらったが、数日で引越しだと思うと、どうも落ち着けなかった。
 IAIでは六畳程の研究室と広いデスクを与えてもらった。朝5時に起床、7時から仕事を開始し、3時半に退社という日課だ。金曜と土曜が休日である。IAIは、一万六千人も従業員を抱えるイスラエル最大の企業だが、軍用機も手がけているせいか各所に自動小銃をもったガードマンがいる。おかげでファントムやミグ等の実物を手で触れることすらできた。(それ以上は守秘義務でヒ・ミ・ツ)
 テルアビブの街は、犯罪発生率も低く安全であることは聞いていたが、おそらくその通りなのだろう。深夜でも気楽に人々が歩いている。兵士がM16ライフルを肩に下げながら家族とレストランにくる土地柄なので(私はそのライフルを構えて写真を撮ることに成功)、犯罪者もビビッているのかもしれない。
 弓を連ねた形状の海岸沿いは、地中海のせいか波は静かで、遠浅の海水浴場が南北約3キロ半に渡って(浜辺に立てば見渡す限りと言ってよい)良く整備されており、しかもヨットやウインドサーフィンに最適な心地良い風がいつも吹いている。これ程広くて泳ぎやすいビーチを私は他に知らない。ハワイのワイキキより断然良い。実はテルアビブだけで驚いてはいけない。フランスの海洋生物学者クストーが世界一美しいと絶賛した紅海にあるエイラット、不思議浮遊体験の死海、欧米人がイスラエルを最高の観光地としているのを理解できる(ほとんど年長者だけど)。もう10月下旬なのに、日本の夏と変わらぬ陽射の下で思いがけぬ海水浴を楽しんだ結果、私はたっぷり日焼けしてしまった。
 しかし昨日その海岸の2箇所で爆破事件が起こった。一つは私のホテルからすぐの場所で、前日に私が海水浴を楽しんだ所である。爆弾はその夜、何者かが砂浜に埋めたらしい。小型パイプ爆弾らしく、人も疎らな時だったので、幸いケガ人はなかったが、もし誰か爆発の真上にいたなら、片足くらいは失う破壊力はあるはずだ。日本なら超一大事件である。しかし仕事場でこの話をすると、小型爆弾だろう、と大して驚かない。やはりこの国では、日本の常識は通用しないのだ。
                               (完)

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 《追記》 結局私は、イスラエルに3カ月滞在し、貴重な体験と勉強をしました。ヘブライ語も少し覚えましたし、友人も何人かできました。また、思ったほど危険な国ではなく、自然の美しい素晴らしい国であることを知りました。
 しかし次の日の事は忘れられません。天皇誕生日に、日本大使館の主催でパーティが開催され、なんとそこにラビン首相が訪れたのです!。私はそこで彼と10分ほど談笑したのですが、その彼が後日、凶弾に倒れようとは・・・
 ところで、肝心の開発の仕事ですが、
   The project was very successful.
ということで、先方から感謝状まで頂くことができました。日本への飛行機は、先方からの配慮で、ビジネスクラスで帰らせて頂いたことも申し添えておきます。
 帰りは楽チンでした・・。

/E